失語症記念館 失語症と風景
Copyright (c) 2002 by author,Allrights reserved

失語症の風景:8

夢の続き

言語聴覚士 吉田 真由美
国立水戸病院

2003年06月

 廊下に人の気配がするので、ドアを開けると、そこにはパリッとした背広姿の懐かしい顔が見えた。
「あれ、Iさん、久しぶりだね。」
「先生、もう患者さん、いないの?」
「うん、今日はもう終わり。どうしたの?」
彼が言語治療を終えてどのくらいになるだろう。言葉の方はそんなに軽くはなかったが職場復帰を果たしている。ときに会社の仕事が苦痛だと心療内科の世話になったこともあったが、今日はそう暗い顔をしているわけでもない・・・。
 彼はニコニコしながら部屋に入ると勧められた診療用の椅子に座ったとたん、堰を切ったように話し出した。もちろん運動性失語のIさんの話は流れるように話せるというわけではないので、時間をかけながら一生懸命汗をかきながら、手振り身振りを加えながら話していく。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 俺さぁ、夢を見たんだよ。気持ちよく、歌ったりしゃべったりしてるんだよ
ね。久しぶりに本当に気持ちよくみんなと話してさあ、ぺらぺらぺらぺら・・・気持ちよくてさあ、ペラペラペラペラ本当にペラペラペラペラなんだよねえ。そしたら、そこで目が覚めたんだよ。あれ、病気になって手が動かなくなったり、しゃべれなくなったりしたのは、全部夢だったんだなあ。長くていやな夢見てたんだなあ、そう思って隣の女房に『おい、俺変な夢見てたんだよ』って声かけようとしたんだけど、そしたら、言葉が出ないんだよね。やっぱり右手も動かないしさ・・・。
 ボロボロ涙が出ちゃってさぁ。話せる方が夢で、やっぱり病気になってたんだって、しみじみしちゃってさ。
 先生、泣いてくれてんの?ありがとう。なんか、誰かに言いたくてさ。へへ・・・先生に話したらさっぱりしたよ。泣いてくれてありがとう。へへ・・・俺帰るわ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
途中言葉に詰まったり、私が質問したりしながら、40分かけて彼はこの話をして帰っていった。足を引きずりながらぴょこぴょこと歩く彼の後ろ姿は、それでも決してうなだれてはいなかった。

 リハビリの目標は十分達成している。会社にも復帰してお給料もちゃんともらえている。年に1回は友達と海外旅行もしている。家庭もうまくいっている。多くの患者さんの中で、QOLの目標の相当上位にいるはずのそのIさんが夢を見て泣いた。
 受容・・・教科書通りに行く筈なんかない。一見受容しているかのように見えても心に受けている傷はとてつもなく深い。一見癒えたかのように見えても普段は薄い皮膚1枚に覆われているだけの場合もある。
 受容の中には諦めという側面もある。諦めて現状を受け入れたと本人でさえ思っていたのに、夢一つであっけなく傷口が開いてしまったのだろうか。ペラペラ話せる夢はとても気持ちいいけれど、目が覚めたとき深い落胆を味わうことになる。
 でも待てよ、夢の中でペラペラ話していたと言うことは脳のどこかに言葉の泉がまだ残されているって事じゃないの?
 Iさんがこの夢を見てから10数年の月日がたった。私の患者さんが千人に上った。1週間に数回同じ重症度の患者さん達のグループワークを持っている。つい最近軽度の患者さん達の話題に夢の話が出て盛り上がった。発病して以来夢を見ないと言う人が1人いたが、運動性失語でペラペラ話す夢を見た患者さんが数人いた。「そうだよね。不思議だよね。」「何で夢だと話せんだっぺね。」とみんな楽しそうに話していた。そこには涙はなく笑顔があった。
 そうなんだ。この共感できる空間がいいんだ。
 あの日、Iさんは共感できる人を捜していたんだ。周りを見渡せば失語症の仲間が沢山いる時代になった。失語症も少しずつメジャーになってきたのかな。
 2003年5月18日、茨城県言語聴覚士会が設立した。そこに集まった県内の言語聴覚士は80余名。名簿では100人を超している。私が茨城で言語聴覚士として働きだしたとき、他に2人しかいなかった。県士会設立の日、バタバタしながらも続々と集まってくる自分の仲間を見て、感慨無量だった。仲間がいるって本当に良いものだ。
 失語症同士の仲間づくりも後遺症を受容し、その後遺症と共存していくためには重要なことだ。共感する仲間がいるって素晴らしいことだ。
 お金にはならないけれど、自分の時間もつぶされるけど・・・又友の会活動のために頑張ろう。

失語症と風景
失語症の風景


Copyright © 2002 後藤卓也.All rights reserved.
最終更新日: 2003/06/14