失語症記念館
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第9回対人コミュニケーション

神戸大学医学部保健学科
 関 啓子

2005年8月:

 7月も下旬ともなれば,新聞やテレビで夏休みの話題がよく登場します。小学生ですら普通は7月20日から夏休みですから,大学生はもうとっくに休み・・・と思いきや,残念ながら私の大学ではそうはいきません。月末まで定期期末試験があり引き続いて夏の諸行事があるために,まだ多くの学生が大学に残っているのです。ついでにひとこと付け加えると,医学部や理系の学部に所属する大学の教員には,まとまった休みというものがありません。連続3日間の夏期休暇があるだけで,あとは授業がある時期と同じように毎日出勤しているのです。私は「授業がないのに一体何をしているの?」とよく周囲から不思議がられるのですが,実は「夏の時期にこそする仕事」がたくさんあるのです。

 「夏の仕事」の大きな柱は「入学を考えている人を対象とした仕事」,「在学生を対象とした仕事」,「教員自身の仕事」の3つに大別できると思います。入学を考えている人を対象とした仕事として重要なのは,オープンキャンパスと入学試験です。少子化が進むなかで,大学にとっては各学部が求める優秀な人材を得て教育すること,学生にとっては自分に適した大学を選択し入学することは非常に重要な課題です。そこで,本学受験を考えている高校生にここでの教育内容や学生生活を説明し,大学選択に役立ててもらう目的でオープンキャンパスを例年実施しています。教員と在学生が協力して模擬授業や学科紹介ビデオ,学生の体験談やデモンストレーションなど趣向を凝らすのですが,実施にこぎつけるまでの準備はなかなか大変です。また,編入生や社会人のための学部入学試験や大学院入学試験も重要な仕事です。合格者決定までには試験問題の作成,面接準備,採点などの一連の過程がありますが,ミスは絶対許されないだけにとても苦労の多い仕事です。
  「在学生を対象とした仕事」の多くは実習に関連します。専門職者の養成を使命とするこの学部では,学外での実習を休み期間に実施することが多いからです。今週は1年生の「初期体験実習」と4年生の臨床実習の報告会が進行中です。「初期体験実習」は1年生が小グループで病院や福祉施設などを訪れ,臨床の現場を体験するものです。将来自分が従事する職種や関連職種の仕事を理解することが目的です。まだ基礎的な知識がほとんどない段階での実習ですから見学の域を出ませんが,この経験は学生たちに強いインパクトを与え,学習意欲を高める絶好の機会となります。一方,4年生の実習は専門職者として必要な知識や技術をほぼ学び終えたところで実施されますから,かなり本格的です。教員からみれば実習を経て確かに成長したと感じます。しかし,実習期間中,学生たちは授業で学んだことを実際に応用できずに悩み,実習指導者を失望させたと感じてかなり落ち込むようです。
  教員自身の「夏の仕事」は,よりよい教育者・研究者を目指すためには欠かせないものです。セミナーなどの開催や参加,論文や原稿の執筆,資料調査やデータ収集など,集中して時間を使えるこの時期だからこそできることがとても多いのです。

 さて,今回のテーマは対人コミュニケーションです。これを取り上げた理由は,臨床実習指導者から学生たちの対人コミュニケーションの拙さがしばしば指摘されるからです。本人の知識や技術の不足が直接間接の原因である場合も多いでしょう。しかし,時に患者さん以外の人たちとのコミュニケーション不良が問題になることを考えると,これは実習という場面に限った問題ではないと思われます。
 テレビのようなマス・コミュニケーションでは情報伝達が主な目的ですが,人が誰かを相手にパーソナルなコミュニケーションをする場合には,気持ちの伝達も重要な要素です。最近はメールという手段も多用されますが,一般的なコミュニケーションは会話という形式で行われます。その際に,話し手のメッセージは言葉によって伝えられるものだと思われがちですが,実はそれ以外の方法で伝えられることも多いのです。たとえば,イントネーションや声の高さ・強さ,間の取り方など話し手が言葉を発するときにそれと一緒に発信されるものです。これは 近言語と呼ばれ,対人コミュニケーション上非常に重要な信号ですが,文字に書き表すことができません。聞き手はこれに込められた話し手の感情や意図を敏感に感じ取って相手のメッセージを理解します。時に話し手の言葉が直接意味する内容とパラ言語的情報が矛盾することがあり,コミュニケーションを阻害する原因となるのです。同様に,話し手の表情やジェスチャー,アイコンタクトなどのような言語以外の方法でもメッセージは伝えられています。メールやインターネットの掲示板などでトラブルが起こるのは,相手を理解するために必要なこれらの 近言語的・非言語的情報が利用できないことに起因することが多いようです。通信の文章に顔文字が多用されるのも,文字言語によるコミュニケーションにおいて生じがちな誤解を避ける知恵かもしれません。

 対人コミュニケーションは重要であるにもかかわらず,通常授業科目として学ぶことはありません。私たちは様々な人との交流を経験し,どうしたら自分を表現し相手を理解できるかを自然に学ぶからです。ところが,核家族の中で学業優先の育ち方をしてきたためか,幅広い層の人と接する機会が減った最近の学生は,年齢や環境が異なる人とのコミュニケーションが非常に不得意であるように見えます。そこで,私は数年前から授業にロールプレイを導入して対人コミュニケーションを学ぶことにしました。演じた場面の役柄に即した適切な表現であったか,また意図したメッセージが確実に伝わったかについて,せりふだけでなく声の調子や姿勢に至るまで様々な観点から学生たち と話し合い,学ぶというものです。その結果,学生たちは近言語的あるいは非言語的情報を意識しない,あるいは利用できない傾向があることがわかりました。会話時には話題の選択,始め方や終わり方,表現方法など重要な要素が多くありますが,これらの 近言語的・非言語的情報の受信発信も対人コミュニケーションが円滑に進むための重要な要素と思われます。

 さて,失語症者の対人コミュニケーション障害を考えてみると,これは基本的に言語的情報伝達の部分の問題であることがわかります。単語が思い出せない,言いたい語とは異なる語や音の組み合わせを言ってしまう,単語同士を正しい文法で並べられない,相手の言っていることが理解できないなどという障害は,まさに失語症自体に起因する言語の問題です。しかし,人生経験を積んだ失語症者は, 近言語的・非言語的情報のやりとりに関しては学生たちよりむしろ上手だと感じます。このため,たとえ重度の失語のために言語的コミュニケーションに制約があったとしても,周囲とのコミュニケーションは予想外に円滑に進むことがあり,そのような場合には人間関係は良好に保てるのだと思います。

 逆に,私たちの周囲を見まわすと失語症がないにもかかわらず何とコミュニケーションが下手なことかと驚くことがあります。同僚や上司と部下の間で,あるいは家族や友人同士の間で,互いに理解できなかったり誤解やいさかいが生じしたりするのは決して稀なことではありません。コミュニケーションの専門家である言語聴覚士同士でコミュニケーションがうまくいかないと感じることがあるのは,何とも皮肉なものだと思います。このあたりで一人一人が自分のコミュニケーションのあり方について考え直す必要があるのかもしれません。
  

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最終更新日: 2005/08/26