失語症記念館
素敵な人々

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蘇生して6年

渡辺 進空白
東村山市在住空白

2001年 7月:

私がはじめて脳梗塞になったのは、1994年4月のことでした。
この時は素早い処置で、失語症の症状も軽くおさまり、40日間の入院で仕事に復帰しました。当時65歳でした。
「脳梗塞は何度も繰り返す危険がある」ということを知りながら、「僕だけは再発しない」と、自分に言い聞かせながら、またもと通りの仕事人間に戻ってしまいました。
通勤に1時間かかっていたので、住まいを役所に近い池袋に移し、それまでのような生活を改め再発を防ごうと思ったのです。
私は当時、教育長をしておりました。
退院して直後に議会対策に対応しました。自分では喋りにくさをカバーしょうと必死に努めましたが、はた目には今までどうりで、話をする速度が少し遅い程度にしか感じられないようでした。
そうして1年間が過ぎた時には、日曜、祭日もなく勤務していました。
2度目の発症はそんな時でした。丁度、日曜日で自宅に戻っておりました。朝食中、箸をぽろっと落としたのです。
瞬間、妻と顔を見合わせ、はっとしました。直ぐに救急車を頼みかかりつけの病院へ行きました。病院に着いて直ぐに治療をはじめました。
1回目の時と違い口が強ばった感じで、話が出来ないのです。
人の話は理解できるのに、自分で話そうと思うと、頭の中の考えがまとまらず口から言葉が出ない。 「失語症」ということに初めて触れた気がして愕然としました。
しかし、そのことを納得するのに,少しの時間が必要でした。
1週間が経つと日頃見なれたテレビの「囲碁の時間」を見ていると、今までどうりついて行けたのです。2時間の番組でしたが、じっと見ている自分に妻は「理解できるのか」と聞いてきたのです。もちろん肯くだけでしたが、今思い出しても、確かに理解できたのです。
私も妻も失語症がどう言うものか、医者や看護婦の説明だけでは分かりませんでした。
言葉を失うということは思考もストップしてしまうのかと思ったのですが、そうとは言えないようです。
手探り状態のうちに2週間が過ぎた時、職場でお互いの気持ちをいちばん分かり合える友助役が見舞いにきてくれました。
その時まで「面会謝絶」だったのだそうです。
ノートに「終わったな」と書きました。たった五文字でしたが、初めて自分の書いた文字でした。
ベットの上で静かにゆっくりと自分で退職の結論を考えていたのです。その言葉を伝えると、助役さんもよく分かってくれて、「天が授けてくれた休養の時間、あせらずに療養するように」と励ましてくれました。
いつまでもくよくよしていてもしょうがない。リハビリの第1歩を踏み出しました。
漢字の単語が少しづつ書けるようになりましたので、毎日簡単な日記を書くようにしました。
初めて声に出した言葉は「バナナ」、「いち,に,さん」で゙した。
希望が見えてきました。
4週間で治療がすべて終わり、退院ということになりました。
言語訓練をすることになったセンターは、自宅から10分位の所にあります。
退院後、3日目からリハビリが始まりました。
これからどのように進めていくのか不安でしたが、STの先生に全幅の信頼が置けるように思い、頑張って行こうと決意しました。
それからの1週間のスケジュールは個人訓練が1回、グループ訓練が1回と自宅で復習することでした。
1ヶ月、3ヶ月、半年、1年と少しづつ成果が出てきました。


この様にリハビリが順調に進んでいる頃、STの遠藤先生の「車椅子で行く海外旅行」を紹介され、おそるおそる参加してみたのです。
1996年5月、パリ・ストックホルムへの旅でした。
病気になってから、こんなに素晴らしい旅行が出来るとは考えてもいなかったことです。
旅に出発して、はじめの緊張も2・3日するとすっかり取れて、持参したスケッチブックで数枚の絵を描きました。もともと、美術には興味が深く、ルーブル美術館、オルセー美術館をこの目で見たことは、たまらなく幸せでした。

オタワ郊外

オタワ郊外

於カナダ旅行
平成11年9月

「旅は最高のリハビリ」を満喫して、帰宅後、旅行中に描いたスケッチを七枚仕上げました。
拙いものでしたが、自分にはまだこんな能力も残っていたのだと気づかせてくれたことでした。
この七枚の絵を、毎週リハビリを受ける部屋の前の廊下の壁に貼り出して、皆さんに見てもらうチャンスを得ました。
このことは、自信につながりました。
また、この絵が縁で、1996年12月14日 「旅は最高のリハビリ」 をテーマにしたST遠藤先生のボランティア向けの講演会で、発病後はじめて数十人を前に話す機会を持ちました。
ロンシャン高原

ロンシャン高原

於カナダ旅行
平成11年9月

先ず原稿を書き、発音しずらい言葉は言い換えて、練習を重ね、約30分間の講演をしました。
この成果はSTの先生と患者との努力と信頼あってのものだと思います。ありがたいことです。
その後の「車椅子で行く海外旅行」には毎回スケッチブックとカメラ、後にはビデオカメラを持って参加して、帰宅してからは絵を入れた旅行記を作ることが楽しみになりました。


モン・ロワイヤル公園

モン・ロワイヤル公園

於カナダ旅行
平成11年9月

この頃には、ワープロも少しづつ上達してきました。
そんな折、今度はメールを勧められたのです。
これは相当手強かったのですが、興味が勝り、息子の助けでどうにか立ち上がり、メールの交換だけは出来るようになりました。
またまた、STの山本先生から[全国失語症電子メールの会]設立準備を言い渡されてしまいました。
1998年12月から準備にかかり、翌年4月に発足しました。
同時に「メーリングリスト」をはじめたことにより、北の北海道・南の熊本からいろいろな情報が読めるようになりました。
現在、2年間が過ぎて60名の会員と1000通をこえるメールが交換されています。
また、[全国失語症大会]の機会には「メールの会の顔合わせ」も千葉大会、神奈川大会につづき、今回の新潟大会でも開催いたします。
ここでもまた、多くの友達が出来ます。
メールは電話と違って「どんなに時間がかかっても待っていてくれる」、これが失語症の私にとって都合の良いことでした。


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最終更新日: 2009/09/10