失語症記念館
素敵な人々

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満点ではないが・介護できるのが嬉しい!

福間 清子空白
島根県出雲市在住空白

2005年 10月:

 私は、平成10年9月13日突然脳内出血で倒れ危篤状態から目覚めると左手左足は全く動かず、何が起きたのか本当に分かりませんでした。
楽しくもあり苦しくもあった、長いリハビリのお蔭で、左足は装具を装着してどうにか歩けるようになりましたが、左手は全く動いてくれず身体障害者として生きていくことを余儀なくされました。
 この事は、本人はもちろんですが、家族も「身体障害者」と言う事を素直に受け入れる事が出来ず、少なからず動揺があったように思われます。
また入院中は、涙・涙の連続で、失意のどん底に陥り明るい将来などまったく見えず、脳内出血だけでも大変なのに、肺炎・子宮筋腫手術・股関節骨折、もう体はめちゃめちゃの分裂状態で、死ぬ事ばかりを考えていました。
 そして、1年2ケ月の入院生活にピリオドを打ち、退院と同時に私の身体障害者としての生活が、始まりました。
会社復職を目指してリハビリに頑張っていましたのに、突然の「退職通知」を頂いてからは、人間不信に陥りアルコールに走り、平田市立病院精神科にお世話になるほど、心はずたずただったのです。
退院したとはいうものの、歩く事がやっとの私に取りまして、台所に立ちご飯用意などできる状態でもなく、義父、主人に迷惑をかけることばかり・・「あんなに元気だった私は、一体どこへ行ったのだろう!」と、自問自答する毎日でした。
  でも、「ご飯用意をしたい・洗濯もしたい・掃除もしたい・みんなが喜んでくれる笑顔を見たい!!」と、やりたい事が山積しているのに、何も出来ない私がみじめで残念で暗闇状態でした。
そして家族の笑顔が見たい為に、半日掛かっての夕ご飯用意から始まり、少しずつ時間を掛けながらですが、どうにか出来るようになりました。
義父も、主人も、私が台所に立ちご飯用意をしている姿を見るだけで、元気になり笑顔が見られるようになりました。
その時私は、やっぱり「家族の太陽だ!!」と実感しました。
障害者の私でも家族を「笑顔一杯にし、元気を与える事が出来る」と、分かった時は本当に嬉しく「生き返った命に感謝」しました。
 あんなに心配し、病院まで何度もオートバイを運転して見舞ってくれた義父も、3年位前から体調を崩し入退院の繰り返し、今では殆ど寝たきりになってしまわれました。
私の病気は寝たきりでも仕方なかったのに、片手・片足の私ですが、ゆっくりと時間は掛かっても、満点とはいきませんが義父を看てあげられるのがとても嬉しいのです。
 義父は「清子さん、いつもすまんねぇ〜」と「すまない気持ち」、また私は、百点満点に看てあげる事の出来ない「おじいさん、ごめんなさい〜」と「ごめんなさいの気持ち」、お互い「すまない気持ちとごめんなさいの気持ち」が融合し感謝へと代わり、病気の後遺症「身体障害」が運んでくれた義父との和合の介護です。
 今まで、拘束性の中での会社勤務でしたが、辞めた今は拘束される事もなく、自由な時間、「介護へのアイデア創造・美味しい食事作り等」障害は残りましたが、これが私の人生だったのかなと思っています。
また義父は、書類等きちんと管理されていないといけない性格ですので、会社勤務時代に培った書類管理方法が活かされ「清子さんでないと!」と、重宝されているのも「長男の嫁」と言う立場上、ちょっぴり嬉しいものを感じます。
 その中で、障害者の私でも介護できる工夫を、既成概念をはずしお互い楽しく・簡単に!!をモットーに義父を看ている毎日です。
満点とはいかない介護ですが、看てあげられる事に「生き返った命が輝いている」ように思われ嬉しく、このような身体的状況ですが、私ができる範囲内で「長男の嫁」として、義父を看続けてあげたいと思っています。

先日、義父から私に一首の短歌がプレゼントされました。
涙もろい私は「うるうる」で、またファイトです。


けなげにも嫁は半身で茶飯事を
裁き居るなり無理なきを乞ふ
御大切にして下さい

清子様へ



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最終更新日: 2009/09/10