失語症記念館
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「原宿の会」と私

橋本 一夫空白
新宿区在住空白
第1回全国失語症友の会(1983年)の記録集(1984年)より
空白

1983年 XX月:

自己紹介させて頂きますと、私は現在某建設会社に勤務しております。
昭和51年11月17日、年齢34才の時、山梨の韮崎市の山腹で、某大学の研究棟新築現場で、脳内出血の為に倒れました。
闘病生活は11ケ月で社会復帰しましたが、完全な社会復帰ではなく、半身麻痺と言語障害が残った状態でした。
現在の勤務は、建築技術部に所属しております。
私の発表内容は、「原宿の会と私」ということなので、「原宿の会」の内容を説明しますと、昭和53年2月19日に、関東逓信病院のSTの鹿内先生他数名のスタッフにより発足し、出席者は80名でした。
会場は、竹の子族で有名な原宿にある渋谷区立心身障害者福祉センターです。
集会は、57年度まで年4回でありましたが、58年より年6回に増やして、会員の親睦を向上させる為2回はリクレーションを考えて、戸外での集会に心掛けています。
現況は、スタッフは約20名で、言語療法士、運動療法士、ソシアルワーカー、保健婦、看護婦、医療相談員等、広い範囲の人達によって構成されています。
会員は約35名ですが発足以来の会員は約100名になっております。
年会費は3,000円で、主に「原宿の会ニュース」の発刊及び郵送費等に使われています。
次に、私の場合の「原宿の会」の入会についてお話しますと、私が社会復帰後1年程してから警察病院のSTでありました鈴木和子先生より「失語症患者の会が出来たので、出席してみたらどうか」と言われましたが、その当時私の状態は軽いうつ病になっておりましたので、一度どういう会なのか見てみようと思い、参加しました。会の発足後第3回目の時でした。
入会時の心境は、会社に復帰したといっても電話の応答もろくに出来ない状態でしたので、会員の方々と同じ様に出来るかどうか不安でした。
発病以前の私は、陽気で開放的な性格でありましたが、病後は小心で神経質な性格に変りましたので、会の内容や、どの程度の患者がいてどの様な指導を受けているのか、等を考えると、興奮して寝つかれず、妻同伴で出席する様な状態でした。
入会してからの心境は、私が考えていたより遊戯的な要素があり、安心して気楽に参加出来ました。
会員の人達は軽症から重症までさまざまでしたが、非常に明るく失語症を忘れる程の熱気がありました。
私はこの様な雰囲気に気押され気味でしたが、これこそ失語症患者の会であり、これを機に社会復帰のステップ台として出直そうと考えましたし、その様に実行いたしました。
又この会に出席できる患者は家庭環境や社会環境が良い人達であり、幸福な人々であると思われましたが、他面この様な会に出席したくとも出来ない人々は相当おられるのではないかと思うと、無性に気が滅入った事もありました。
入会してから、私が精神面で得られたものは三つあります。
その第一は、「人間の和」「心の和」であります。
これは、患者同志、御家族及びスタッフの三輪一体で形成した「人間の和」です。
人間にとって一番大切なものは、「心の和」であり、大都市の人間が無意識のうちに失ったものでもあります。
この「心の和」を求めて集会に出席することだけでも生きがいを感じている会員は、私以外にも多いと思います。
この暖かく友情に満ちた感情は、永く「原宿の会」のシンボルにしたいと考えるのは、会員全員の願いであると思われます。
第二は、スタッフの熱気に感謝しました。
というのは、数人のスタッフにより発足した「原宿の会」は、当時福祉国家日本といっても、社会奉仕を志す有志の集まりで、失語症患者に何か出来るものを引き出そう、そして勇気づけてやろうという会は無かったはずです。
今では、集会の反省会を設け、スタッフ及び患者とのコミュニケーションを計り、又患者の自立心を養成するために、会の課題について真剣に取り組む様影の力になっております。
この反省会での私の失敗談をお話したいと思います。
この時の課題は、午前中挨拶ゲームのあとに、歌を合唱した時の話です。
私の「歌は全員で歌うというマンネリ化したやり方よりも、一人ずつ歌ってはどうか」という意見に対して、ある女性は、「全員で合唱した方が良いと思う」と反対されました。
私は、昔から冗談好きでしたので、失語症になっても冗談を言い、意見の先走りが多い為、度々失敗しております。
話の続きは、大体次の様だったと思います。
「あなたが、歌がへたなのは先天的なのか、後天的なものか」について話したのに対し、「あなたの口のきき方が悪い、私は、学校で音楽も教えていたのです。失語症になってから歌が思う様に歌えず、心を痛めているのです。」
この時、私の言動の行き過ぎに気がつき、お詫びしました。
歌ひとつをとっても、どうにか歌える人もあれば、普通に歌える人もあり、その差は思っていたより大きいものだと感じました。
これは、ほんの一例ですが、失語症の状態が一人一人違っており、会の課題について一定の枠内にいれることは非常に困難なことです。
しかし、皆で反省会をし、真剣に討論しているのは、「原宿の会」の誇りであると自負しております。
第三に、大田先生の講演から私なりに学んだことをお話したいと思います。
先生は、講演や講習会等でお忙しい中、「原宿の会」で脳の働きについて講演され、私もまだまだ脳細胞が相当数残っており回復の望みがありと確信しました。
又、健康十訓の講話を聞き、「少欲多施」「少言多行」については、今後共私の座右の銘として頑張ろうと思います。
この様な会の活動にも波がありました。
一時は会員の出入りが激しく、10名程度に衰退した事もありましたが、これは集会の内容がマンネリ化した事や、スタッフの諸事情によるものでありました。
現在ではスタッフの手の平の上での集会に終らず、患者主動型になる様に徐々に脱皮して、(無論スタッフの意向によっております。)会員全員で会を支え、再び盛んになってきました。
最後に、私見ではありますが、会の将来性について述べさせて頂きます。
会員が常時50名程度で集会が持てる様に皆で努力し、協力すれば発展は望めるし、そうなるべきだと考えます。
今後は失語症の症状によって分科会をつくっていきたいと思っております。
私達がつくっている「明日の会」を例にとりますと、「原宿の会」の内で、ある程度会話ができ、社会復帰している人達で会をつくり、本当の社会復帰ができる様、本や雑誌等の読み方や内容把握、そして少しでも失語症が良くなる為に勉強しております。
この様に、各々の立場で有意義な勉強会をつくる方向が望ましいと思われます。
失語症患者の集会が自己啓発の場となれば、将来は明るいし、そうなる様一会員として努力しようと思っております。

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最終更新日: 2009/09/10