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昭和59年6月病院の庭で歩行訓練、昭和59年11月自宅でパソコンのリハビリ 

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発病後、1年半頃の話です。人生の岐路に立っていたのです。
このまま、この家で一生暮らすのか。もう一度、打って出て行くのか。

「孟母三遷」て習ったですよね。
私には子供の頃から、引越をすることになれてました。
父が鉄道関係に勤めていたので、生まれてから結婚するまでに5回引越をしましたし、結婚後、病気になる前には9回も引越しています。
だからと云って、病気したその直後の引越は、意味が違うのです。
会社まで約2時間かけて通っていましたので、このままでは会社に通えないのです。それに、自分に合ったリハビリに通える施設がないのです。
サラリーマンの城である一戸建から、会社に歩いて通える、江東区木場のマンションに転居したのは、発病後1年5ケ月しか経っていなかったのです。
で、「孟母三遷だね」と夫婦で笑ったものです。本当は・・・。

会社から、「会社は、まだいいヨ。ゆっくり休みなさいヨ。」と云われて、私は途方にくれました。
裏返せば、営業用のことばを操れないのだから、と云うことだからです。
STの先生からは、「ことばの練習をしていても限度がある」と云われていましたし、私も「実社会に触れてこそ、生きた勉強ができる」と思っていましたから。
引越して準備万端用意して、「復帰したい」、「まだいいヨ」とに悩んでいました。
引越してから2ケ月目、STの先生からたまたま勧められて、「原宿の会」の六月の例会に参加することにしました。
参加してみると、「失語症になった人々が、こんなにいて、皆さん一生懸命に生きようとしている」と云う感銘を受けました。

木場に引越したばかりだが、江東区にも家の事情で[原宿の会]に出席出来ない人も居るのではなかろうか?
一般に緊急の患者には病院があり、医者がいるのですが、病院での手当てが終わった失語症患者には、言語治療する場が何もない、そう、全然何もないことに気が付きました。
地域に同じように会が、出来ないものだろうか?

江東区の区役所や福祉事務所に行き、「こんな会を作りたいのですが・・・」と申し込んだが、知らん顔をしていました。
知らん顔をされると、俄然ファイトが湧くものです。
「もう一つ、行ってみよう!」
障害者福祉センターがあると聞いて、そこへ行ってみました。
センターの所長さんが、「趣旨書を書いて下さい」と云うんです。
「エッ、俺が!・・・」
失語症患者には、これがつらいのだ!
その場で文を考え、奥さんに手伝ってもらい、左手で何とか清書し、提出しました。
所長さんは、担当を付けてくれると云うことでした。

 
会合が開かれると、パソコンを使ってその議事録を作り、区報への記事原稿を書き、資料作成、人集めに精を出しました。
会社にいるより、仕事をしたような気がします。
初めは、4、5人でも集まればと思っていましたが、10人位集まり出しました。

九月に入って、発足会が開かれました。
会員15名、家族9名、先生、ボランティア、来賓とその他13名、子供2名の計39名の人々が集まったのです。
江東区失語症友の会として、会員が雀のように「チイチイパッパ、チイパッパ」と喋れるようにと、「すずめの会」と名付けられました。
パソコンのプログラムまでは、まだ組めませんでしたが、使うということに、何時の間にか身について行ったようでした。
「早く会社に、復帰出来たらいいナ」と願っていました。
 


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最終更新日: 1998/08/25